イエ電必要ですか?

皆さんのお宅では固定電話(イエ電)、ちゃんと利用してますか?

ケータイ、スマートフォンの契約者台数が1億3,000万台と人口を超えてる我が国の実状としては、家庭や事業所での固定電話の数は1997年の6,300万台から2012年の5,600万台へと減少の一途を辿っています。
ケータイが一般的になっても、一部の一人暮らしの若者などを除き自宅にイエ電がないのは社会的にみっともないような感覚が未だに残ってる気はしますが、よーく考えてみましょう。

・固定電話がないと生活に困りますか?
・固定電話があってホントに良かったと思えることはありますか?
・FAX受信などの目的がなくても固定電話料金の支払いは妥当ですか?
・固定電話を発信することは月に何回ありますか?

今や、いらなくなっても1円にもならない固定電話。7万円も8万円も払って引いた固定電話。これから一体どうなるんでしょう。

何が言いたいかというと、ロクに役に立ってもいないのに一日中かかってくるのは営業電話だけの固定電話がのさばっていることに腹が立っているからです。
はい、FAX専用にしていた時期もあります。呼び出し音をなくして留守電にしていたこともあります。

しかし、電話帳に載ってる限り営業電話はかかってきます。最近ちょっと必要があって呼び出しできるようにしなければならなくなりました。しかし、電話帳掲載は止めてるのにかかってきます、営業電話。
もちろん、たまたま求めていたサービスや商品を案内してくれる可能性もゼロではないでしょう。でも仮にそんな内容だったとしても要らないです、リアルかネットで探すので。

電話帳掲載を止めても、以前の電話帳を使ってかけてくる場合は避けようがありません。ナンバーディスプレイであっても、出る前に相手の素性や意図まで分からないので大して変わりません。
とにかく、霊園もリフォームも商品取引も生命保険も要らないんです。てか必要なら自分で探します。

ああ、何で電話帳なんかに電話番号載せちゃったんだろう。

それより何で電話がこんなに生活の邪魔ばっかりするんだろう・・・

 

 

 

岩合光昭写真展「ねこ歩き」

場所は日本橋三越本店の新館7階です。

奥さんのお友達のご主人が岩合さんのお知り合いで、招待券をいただいたので行ってきました。
日曜だし混んでるだろうなあ、と開店時間直後に入ってみると案の定激混み・・・

会場入口すぐから展示は始まっていて、みんなそこで立ち止まってジーっと観てるもんだから全然進まない→入口がごった返すの悪循環。
係の人が逆回りを勧めるのでそっちから攻めてみましたが、もう芋を洗うような状態でした。

展示作品のほとんどはNHK BSの「世界ネコ歩き」からのもので、今後公開されると思われる国内で撮った作品も結構ありました。極めつけは岩合さんゆかりのネコたちのコーナーで、ご本人が今も観ると泣けてくると言う一番可愛がった海(かい)ちゃんや、野生児の柿右衛門、娘さんの飼いネコである「にゃんきっちゃん」、八ヶ岳の麓のご自宅で現在一緒に暮らしているケナの写真が展示されています。

出口直前のその場所がギャラリートークコーナーになっていて、岩合さんが登場して15分くらいおしゃべりをしてくれます。主にロケ先でのエピソードが中心ですが、面白かったのは、普段は無関心なのに「世界ネコ歩き」だけは自分の家のネコもテレビ画面に釘付けになるという話でした。会場の人たちもウンウンと納得。やっぱりあの番組はネコにとっても特別なんですね(ハナは観ないけど)。

あまりの混雑に「本日に限り、半券があれば出入り自由とします!」っていうくらいの入りでした。
入口には岩合さんの解説音声プレーヤーの貸し出しもやっていて(500円)、出口のショップで著作を買うとサイン会にも参加できます。

予想通りすごい人気でございました。

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※すみません、私は管理者なのにコメントの投稿ができないようです。レスもできません。
現在調べていますが、システム的な問題かもしれません。

仮想な現実

前回のエントリで触れた映像への関心の違いについてちょっと思ったことを。

namiさんのコメントを読んで、どうもネコだからとか関係なく人間と一緒で、好奇心や興味に対して真剣になっちゃう者もいるし、なかなか持続しない者もいるってことなんだと思います。

そして、ネコの場合そういう下地はやはり幼少期の育ちや周囲の環境に依るのかなあ、と思ったりします。ぼぎがノラだったからとかではなく、多感な時期にどのくらい異質なモノと接していたか、ではないかと。

モモコもハナも生まれてからほとんど不自由のない環境にいて、性格の違いはあるにせよ、与えられた条件の中で過ごす時間の大半は同じような風景と変わらない人たちに囲まれてきました。
一方、ぼぎは出会ったネコや人間の数もさることながら、気持ちの安定しない場所や見たことのない景色に身を置くという経験をいくつもしたことでしょう。もしかするとペットショップのケージに入っている子たちにも血統に関係なく似たような現実があるかもしれません。

もはや動物の映像が好き、というより自分自身をその場に置いて対処の仕方を一生懸命考えているのではないでしょうか。モモコやハナにとっては映像をリアルに感じる必要がないため、興味も関心も持てないのだ、と考えると合点がいくのです。

彼らに直接聞くことができればその答えはわかるでしょうが、仮に質問できても教えてくれないかもしれませんね。

Display

テレビっ子ぼぎ

ぼぎは映像が大好きです。

「世界ネコ歩き」も1時間ずっとあの位置から最後まで観ていました。
ネコ以外でもBSの紀行ものやドキュメンタリーはジッと観てますね。
ラミーさんのコメントにあるように岩合さんの映像は「ネコ目線」てこともありますが、ネコにも訴える何かがあるのかもしれません。

おそらく民放だとCMとかで中断され気が散って続かないんでしょう。
スポーツではサッカーなどのボールも手で追ったりしますが、それほど執着しません。
しかし、こんなこともありましたね。この時もモモハナは完全無視。

観察してると、たぶんネコだと認識して観ているとしか思えないですね。
ワンコや他の動物についてはあまり観る機会がないので何とも言えませんが、たぶん観ると思います。

よそのネコたちはどうなのかわかりませんが、1時間もの間ずっと観ていられる、それも画面の中の小さな虫まで目で追っかける様は一緒に見ていて面白いです。
動画にもありますが、キチンとお座りして時々うなずくような仕草をしたり、居ずまいを正したりしている様子はまるで人が観ているかのようです。

鏡に映った自分の姿もしばらく見ています。
幼い頃は近づいてニオイを嗅いだり鏡に触れたりしたこともありましたが、今は不思議そうに見ているだけです。鏡というものを理解しているわけではないでしょうが、おそらくテレビ画面やPCのディスプレイと感覚は同じなのかもしれません。

ところが、ハナは全く映像に興味を示しません(モモコもそうでした)。
鏡の前に行っても見もしないし、彼らにとってはテレビの映像も実体を感じない単なる景色ということのようです。

「猫のためのテレビ」
というDVDもあるそうですが、ぼぎならきっと楽しむと思います。

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The Sage

今日は楽曲を紹介します。聴いてください。(プログレですがうるさくはないです)

もう40年経ってしまった。

The Sage

I carry the dust of a journey
That cannot be shaken away
It lives deep within me
For I breathed it every day

You and I are yesterday’s answers
The earth of the past turned to flesh
Eroded by time’s rivers
To the shapes we now possess

Come share of my breath and my substance
And mingle our streams and our times
In that infinite moment
Our reasons are lost in our rhymes

アルバムは違いますが、Bistro TunesでのELPのエントリはこちら

ふりかえって

今でも甦る記憶・・・

モモコが、夏の暑い盛りに洗面台の上で過ごすようになり二階に上がらなくなった頃、よほど辛かったんだと今になって思います。
ある意味、自ら隔離された空間を確保しようとしていたのかもしれません。
彼はすでにある程度の通院を経験していたので、病院に行くことが何を意味するかということを良くも悪くも理解していた気がします。

本当に不調な時に煩わしさから解放されたい気持ちとともに、降って沸いたような運命を自分だけで引き受けようと考えたに違いありません。
若い者たちがいつも通りの日常を生きるために、何か魔物のような得体の知れないモノとたったひとりで戦う覚悟を決めたんだと。

 

 

みなさんが思う以上に彼はストイックで、利他主義者で、慈悲深いネコです。ハナやボギーのお母さんのような存在と言えるかもしれません。たぶん彼は縁あって我が家に来た時点で、やがて誰かの面倒を見るのが分かっていたのでしょう。最初は子ネコとして甘えていましたが、その後のハナやボギーとは全然違う落ち着きがあったし、ハナに対して特段の愛情を注いで相手をしていていたことはブログのエントリを見ていただければお分かりだと思います。

しかし、ボギーを迎えた時に私たち夫婦は本当に悩みました。
別に格好をつけるわけではありませんが、ボギーを正式に受け入れるまでには様々な葛藤がありました。
この暴れん坊は本当に手に負えるのだろうか・・・ ハナが病気になってしまうのではないか・・・ 今さらダメでした、と言えないよなあ・・・などなど夫婦で毎日のように話し合いました。でも最終的に家族にしよう、と決めたわけです。
間違いないのは、この子に生きていてもらわなければならない、という使命感にも似た気持ち。
そして、モモコの存在でした。

おそらく我が家がハナしかいない環境だったら、里親に手を上げることはなかったでしょう。
ボギーは相性を選ぶようなネコではありませんでした。生きようとする猛烈な本能があるだけで、自分の「生」を満たすためなら他に何もいらないという感じさえする状態でした。

「いやいや、子ネコなんて皆そんなもんだよ」

とおっしゃる方もいるでしょう。私もネコは初めてではありませんし、子ネコがジャレついて人や先住ネコに絡むのは普通のことです。でも違いました、ボギーは。
自分以外は全員が敵、と思えるような凄まじい攻撃を先住ネコたちに繰り出し、慣れる気配もなかったのが実状です。生々しいシーンは、mirura家のブログからこちらに見に来ておられる方々に公開できる状況ではなく、正直あたりさわりのない写真をアップするしかありませんでした。本当のことです。

でも、このあたりをきっかけに「もしかしたら何とかなるかも」と思い、OKしたのでした。

例えばこれを見ていただければお分かりのように、ネタとして会話をつけましたが、実のところ見ていられないくらい激しく絡んでいた日ばかりでした。そんな中、じっと我慢してやらせていたモモコ。
こうして格闘しながら、しばらく後のエントリで「ボギー、行くとこ間違ったかも」という心ないコメントを見てとてもがっかりしたのを覚えています。「なんでブログなんか更新してるんだろう」と。

モモコがいなかったら、ボギーが家族になることはなかったかもしれません。いや、なかったでしょう。

半ば「うつ」状態だったハナを慰め、少しずつネコたちのコミュニティを形成していったことで、当然のごとくリーダーの役割をこなしていったのはご承知の通りです。ホントに素晴らしいネコでした。

 

洗面台で鼻血を出した段階で、きっと後戻りできないくらいの症状だったのでしょう。
自分の運命を悟り、弟たちへのメッセージとして洗面台での暮らしを見せて、『ワシにかまわんと、おまえたちで仲良うせえ』と言いたかったのでしょう。そんな気がします。

 

 

最後の日、死に向かいつつあるモモコの前で、そんな思い出は一つも浮かびませんでした。ただ、苦しみから解放させたい、それしか私の頭にはなかったと思います。

今、私たちはみなさんに感謝しています。
なぜなら今、二代目モモコの時に味わった罪悪感と喪失感による苦しみを同じように背負わずに済んでいられるのは、みなさんの多くの暖かい言葉があったからです。
どれくらい心強かったか、どれくらい励まされたか・・・
ブログをやっていて本当に良かったと思いました。

ありがとうございました