ネコでいきます

まだ、地震酔いでゆらゆらしています。これいつまで続くんだろ。

Cat's-pawを始める時もParent's Roomを書き始めた時も、それまでいわゆるアルファブロガーの方々による深い洞察と見識で「今」を切り取って論じていたブログを読んでいましたので、そうしたマネごとは自分にはできないと自覚していたにも拘わらず、震災を契機に難しいことを書いてしまったりしました。彼らと違ってこちらの意見など吹けば飛ぶような根拠しかないので、恥ずかしいんですがつい書きたくなってしまうことが多すぎて困ります。

そもそもブログの本質である「個人による情報発信」を考える時、それは表現力の巧拙や話題性の高さに関係なくオープンな日記という感覚で捉えられて構わないものだし、読む人もなくひっそりと更新されていく中にビックリするような世界観や味わい深い考察が隠されていることもあるかもしれない、非常に奥深いメディアだと思います。今日はこれ食べた、とか、こんな事にムカついた、といった他愛もない内容に興味を感じたり共感を持ったりすることもあるだろうし、ヘタな教科書を読むよりずっと有益な文章に出会うこともあります。私の場合は、読んでもらっても恥ずかしくない分野は「Jazz」くらいしかないと思ったので、Bistro Tunesというレビューサイトをやることにしましたが、これとてCat's-pawにいただいたコメントがきっかけですし、ボギーがウチに来ていなければ存在すらしなかったでしょう。ボギー以前のCat's-pawはせいぜい週に一回エントリを上げるのがやっとで、でもなぜ四年近く続けられたかといえば、わずかながらも読者の方々が見てくれていると思ったからです。

 

私がCat's-paw開設以前から読んでいたブログをいくつかご紹介します。

  • Joi Ito's Web(伊藤穣一氏によるインターネット、カルチャー、ビジネス論・・・当時は英語のみ)

 

それぞれずっと以前から多くの人に影響を与えてきた方々ばかりですが、梅田氏の言われる「不特定多数無限大への信頼」やGoogleによる「知の世界の秩序を再編成する」といったまだ10年も経っていない論考にワクワクしたものです。圧倒的な情報量を持つ市井の人々が、既存のメディアが流す常識を打ち砕く様は、毎日が一種のドキュメンタリー映画のように感じられるほどでした。今ではネットからの情報でパラダイムがひっくり返るケースは稀ですが、当時の彼らのブログにはかなり影響を受けました。

何が言いたいかというと、一人でも読んでくれる人がいるブログでは「エラそうな」評論は天に唾するようなものだと思い至った、ということでした。

7件のコメント

  1. いつも楽しい記事をありがとうございます。
    楽しいばかりではなく、今回の深い考察の内容を書いていただいたことで、改めて勉強になったり、またいろいろと考えさせられました。
    反論させていただくなら、「エラそう」ではまったくないどころか、日本にいない分、同じ日本人としての原点にたっての誠実な想い・評論を共有させていただいたことで、大変心のよりどころとなったこともまた、事実です。
    ですので、これからもどんどん氏のご意見を読みたいと、楽しみにしているわけです!
    (今ひざの上に陣取っている末娘にゃんこも賛同しているようです^^)

  2. 「エラそう」になるかならないか、
    それは書き手の表現力の稚拙とか、見識とかではなく、
    その人の人柄が関わるのかな〜と思います(これこそエラそうな意見?)
    cat’s pawさんの文章からは、そういうイヤな感じは受けません。
    これからも時には意見、思いを書かれてもいいのでは。

  3. ACEさん
    ありがとうございます。
    よく考えてみます。
    ネコたちを見ていると、座り込んでブーブー理屈をこねている自分がバカみたいに思えてくるんですよね。

  4. 伽美さん
    人柄ですか・・・
    とっくに見透かされているんでしょうね。
    ブログって備忘録的な役割もあると思うので、ごくたまに何か書くかもしれませんが、つまんない時はスルーしてください。

  5. はじめてコメントさせて頂きます。
    書いておられる結論に至った経緯とご経験とご実感そのものを追体験することはできませんが、私にもわかる部分がある気がしました。
    強力な主張は、いつもある意味でとても単純です。その強力なライトで消しとんでしまった陰影の中にある、強力なものとの或いは小さな差異を、大事にしていきたいと思います。
    それが何になるかでなく、その時々に出来る限り考えて正しく動き、自分と世の中を出来る限り正しく使って、あとは後世の判断に任す、それぐらいでしょうか、できること。
    それと「天に唾した」記憶があったら、その領域に二度と踏み込まないために道筋を覚えておく一方で、一度目は許してあげたほうがよいと思います、イタイですけど。
    見当はずれな長文かも知れません、失礼いたしました。

  6. チャイナローズさん
    おっしゃっている本質は私の伝えたいことを説明してくださっていると感じます。
    「天に唾した」という些か自虐的な表現は、元より題材の十分な咀嚼無しに、想定される期待値を求めた結果、所定の属性だけを対象に推論を展開したあげく、誤謬を含んだ主張を放置するような行為という解釈です。
    表現の自由を曲解しないためには、たとえ芸術のような分野であっても、個人の感覚を超えた部分で事実を軽視するような言論が許されないのと同じように、逆に言えばたとえ事実を踏まえたとしても個人的偏向によって情報が伝達されることの弊害を、私たちはよく考える必要があると思いました。
    そのことを、この二週間で集中的に学習できたような気がします。

  7. 二度コメ御免なさい。
    言葉足らずなコメントを理解して頂き、有難うございます。
    義憤にかられてというのか、「何とかしなければ!」と、「力の善用」を願ってやったはずのことが、実は自分の「力志向」を自分に知らしめるだけだったという経験が、私には、あります。外に向かっては慙愧の至り、何より自分自身を害った経験でした。おそらく私は、まだ、そこからのリハビリの過程なのです。
    猫たちはその善用も何も、そもそもが「力ではたどり着けない世界」(ますむらひろしの言)に居る、だから魅かれる。
    ただ、やはりそこ(人の世)に「善」や「正しさ」はあると思いたいですし、素手でつながれる人と、力に拠ることのない議論をちゃんとしながら、新しくなって行き、開かれた自分を紡ぎ出したく、思います。たぶんまだまだ間違うでしょうが。私は二度まではいいと思っているんです。二度目でどこが悪かったか気づくことがあるから。三度以降でも気づかない?そりゃ個性だわ(苦笑)。
    ぼぎさんがそちらにお出でになった日から、ずっと拝見しています。それではまた。

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